「元結 (もとゆい、もっとい) 」の話

「元結(もとゆい、もっとい)」は日本髪の根元(もとどり)を束ねるのに使う紐のことです。

髪を結うのに、古くは麻紐(あさひも)や藁、紙を裂いて作った紙縒(こよ)りなどが使われていました。江戸初期・寛文年間(1661~73)頃から、長く撚った紙縒りに糊をつけて、布でしごいて(扱(こ)き作業)作られた扱き元結が登場し、広く使われるようになりました。そして。古典落語などでも有名な「文七元桔」という名で、信濃の飯田(現在の長野県飯田市)は元結の主産地として全国に知られるようになりました。

古くから紙の原材料である楮(こうぞ)が採れ、水も豊富な飯田では紙の生産が盛んで、17世紀後半には元結の生産が開始されたと言われますが、元結業が発展したのには、いくつか理由があります。まず一つには、飯田下伊那地方で古くから盛んだった製紙業が挙げられます。強くて丈夫な上質の紙は都への献上品にもなりました。

正徳4年(1714)には、美濃浅谷(あさがい)の稲垣幸八(いながきこうはち)という人物が製紙の盛んな松尾村(現飯田市)へ招聘(しょうへい)され、元結原紙となる晒紙(さらしがみ)の改良を行ない強く切れにくい元結の品質向上へつながりました。

また、飯田藩が元結作りを地場産業として奨励したことが挙げられます。下級士族の内職から次第に農家の副業へと広がり、元結の需要拡大につれて、それを専門とする職工が増えました。

さらに、江戸をはじめ、各地への販売ルートを整備したことも重要です。

桜井文七(さくらいぶんしち)は元結の製法を改良し、光沢ある強靭(きょうじん)な元結を作ることに成功、その販路を開拓するために江戸芝日陰(しばひかげ)町に店を構えて販売し、全国的に有名になりました。江戸で成功を修めた文七は飯田へ戻り亡くなったといいます。飯田市箕瀬町長昌寺(ちょうしょうじ)には「元結文七の墓」があり、今でも飯田水引協同組合によって毎年法要が行なわれています。

こうして、大きく発展した飯田の元結業ですが、明治の世となって発せられた断髪令以降、需要が激減し、廃業する所も多く出ましたが、その技術を活かし「水引」の生産へ転向して、全国の水引加工の7割の生産高を誇ります。

もちろん、需要は少なくなったとはいえ、力士の髷(まげ)や歌舞伎などのカツラ他、日本髪を結うための元結は現在も飯田で作り続けられています。

 

元結の製造工程>