ひさかた和紙の話

 

 

 


「ひさかた和紙」とは

長野県飯田市下久堅地区で漉かれた和紙を「ひさかた和紙」と呼びます
(ひさかた和紙の会規約より)


飯田の和紙の始まり

推古18年(610年)に朝鮮半島、高麗より曇徴が派遣され、彩色の紙をすいたことが始まりとなっています。
飯田下伊那では平安時代末(1186年)、飯田の地頭近藤六郎周家(こんどうろくろうちかいえ)が、紅白の紙縄(水引の原型)を開発したと伝承されています。
本格的な和紙造りが始まったは、飯田藩主掘親昌(栃木県那須烏山市城山)が在来の和紙に付加価値をつけるため、名古屋から元結職人を招き、技術を習得させたことから始まりました。

※:ほりちかまさ 1672年飯田に転封され、以後明治維新まで堀氏が12代続いた。

下久堅の和紙の繁栄「全村紙漉き村(ぜんそんかみすきむら)」

飯田和紙や元結が「丈夫である・火災の際の水に強い・艶つやが良い」と評価を得るようになったのは、宝永5年(1708年)に美濃国恵那郡浅谷村から稲垣幸八(当時28歳)を招いたことから始まります。幸八は7年にわたる研究の後、丈夫な晒紙を開発しました。
幸八が改良した晒紙から製造される「飯田元結」は、江戸両国相撲や吉原などの花柳界から、腰が強く丈夫である・しかも艶やかであるとの評価を得て、生産・販路とも一挙に拡大しました。
特に、飯田商人を代表する桜井文七が1750年に江戸へ出店し、ブランド名「文七元結」あるいは「飯田元結」として名声を博しました。
このように、元結生産が盛んになったことにより、下久堅・松尾・龍江地区を中心に、商業的な「和紙製造」が展開されました。
最盛期では和紙製造工場数では、岐阜県(3944戸)に次いで、長野県は第2位(2443戸)を占め、県内でも飯山市の内山和紙と勢力を二分し、生産額では内山和紙の1・5倍に当る、132,764円(現在の価値では1億円位)を占め下久堅村・松尾村を中心とする下伊那地方は、県下一の生産地でした。
特に、下久堅では全戸が何らかの形で紙漉きに関わる「全村紙漉き村」でした。

下久堅の和紙生産が盛んになった理由

  1. 冬乾燥し、晴天が多い
  2. 浸食地形であり、段丘崖より地下水が得られる
  3. 南向き斜面が多い
  4. 技術の集積があった
  5. 飯田藩の奨励があった
  6. 稲垣幸八の技術をすぐ導入した
  7. 村長はじめ明治以降にも先駆者の努力があった
  8. 水田面積が少なく、副業として導入された
  9. 隣接地の南山や遠山地方から原料を移入できた
  10. 問屋 との結びつきが深かった

久堅和紙の衰退

紙漉きと元結など紙加工産業がうまく組み合わさって発展してきたこの地方の紙産業も明治4年の断髪令による元結需要の激減や養蚕業の発展による労働力の減少により大きな転換期を迎えました。元結は水引に、晒紙製造は障子紙などに切り替えて生産を続けました。
しかし、機械紙の発達によりきれいで安価な洋紙が普及したことや、日本の産業経済の変貌とともに和紙作りは衰退しました。
さらに追い打ちをかけたのは、昭和36年6月の梅雨前線豪雨(通称:三六災害)です。楮畑や紙屋の直接的な被害や、復興需要による建築業などへの業態転換により紙漉き産業は消えていく道をたどりました。

そして「ひさかた和紙保存会」による技術伝承、「ひさかた和紙の会」による地域発展へつづいています

出典:下久堅ふれあい交流館資料

 

 

手漉きの手順>